蒼い天を赤く染めあげた夕陽は、瞬く間に夜色へと移り変わる。
太陽から、月に。
赤く血を流したかのような空。
地平の彼方に、夜の闇とともに白き月が現れる。
明るき光気と昼日は母なる夜へと支配を譲る。
† † †
空が深紅へと染めあげられる。
日の終わり。
全てが深紅の光に染め上げられていた。
独り、山の山腹で眺める人影もまた同じく染め上げられている。
その影は、町の彼方へ沈む太陽目を細めて眺めていた。
小柄な丘の山頂にある自分の家からから下の町へと向かう途中、足を止めて。
眼下には、赤く染まった町とその先に沈みゆく太陽が一望できた。
昔ながらの白い家が立ち並ぶ小さな町並みは、赤光に染め上げられている。
また、人影―・のこの国では少数派の白い肌や淡い金色の髪も本来のとは違い、赤銅色に染まっている。
「一日の始まりに太陽は生れ、日暮には死にゆく」
それは彼が生れたギリシアの神話ではないが、世界各地でかつて信じられていたこと。
「この色を見れば、信じたくもなる・・・か」
微かに笑みを含んだ声が、誰に言うでなく零れる。
故国の神話にはそんな話はないし、現在国民の大半を占めている宗教にもそんな話はない。
また彼自身は、まったくの無神論者。
別に神の存在に否定的なリアリストでも、人生に悲観したペシミストでもないが。
特に信ずる神を必要とないだけ。
それでも、今目の前に広がる赤は、太陽が、天が血を流していると思えるほどに・・・紅い。
理論でいえば、大気意中の微粒子が赤い色を反射して空が赤く見えている。
その光を放っている太陽も、水素とヘリウムが高温高圧化におかれ核融合を起こしているに過ぎない。
誰も、血など流してはいない。
ただ、あまりにも鮮やかな赤は、血の紅を思わせる。
「ま、実際に誰かが空の上で血なんか流したら、天だけが赤く染まるどころでは済まないですしねぇ」
薄い青に赤い光が入り込んで、瞬間的には淡い紫にも見える目を細めて暮れゆく空を見つめる。
遠くなることすらない、彼にとって最も深い記憶と結びついた色の空を。
風で雲が形を変える時だけ、その場に立ち止まっていた。
† † †
西の空に赤が残るが、群青色が多くを占め始めた時には町に着いた。
この国は生まれ、育ったと言うには留学や旅行で生活をした期間は19歳の半分もなく短いが、それでも家がある土地。
家族と、真実己を知っている友人と過ごした短い時間は全て、この国にある。
どれほど短い時間であっても故郷と言うべき、国。
ここは、さほど大きくないその国の村に近い小さな町。
大人が駆け足で走れば端から端までで20分とかからないだろう規模。
しかも彼の家から町とつながっている道は、真ん中に近い場所につながっている。
このまま行けば、少し予定より早く着くか。
そんなことを考えながら、シエスタが過ぎて人工の灯りに包まれている町の中へ軽い足取りで入っていく。
降りてきた人工灯のない道と違って、橙色の光と雑踏に包まれた通り。
雑貨屋店主「おや、君帰っていたのか」
通りに入ってすぐにある雑貨屋の店主が声をかけてきた。
「ええ、お久しぶりです。昨日、帰りました」
雑貨屋のおばちゃん「本当だ。おかえり!大学は・・・博士課程だっけ?それももう終わったんだろう?半年前にそう言ったのに、しょっちゅう海外まで出かけてるようだけど」
「ただいま。卒業しましよた。オレも、しばらくはゆっくりするつもりでギリシアに帰ってきたのに、友人たちから『暇らな、こっちい遊びに来いよ!』等と呼ばれ回って。今回はスペインの友人のところに行っていました」
雑貨屋の店主「ふ〜ん、もしかして今からまたどこかに出かけるつもりで?」
「ちょっとした野暮用で、アテネまで。今は時間がありませんので、後日ゆっくりとご挨拶に伺います」
にっこり笑って、円滑に通り過ぎようとするがガッツリ腕をおばちゃんにホールドされている。
「あの、腕を」
雑貨屋のおばちゃん「チッチッチ。そんなに急いで出掛けようなんて、彼氏だろう?大学をエリートで卒業したのが、態々ギリシアの中でも片田舎に帰って来るなんて、だれか特別な人のためとしか思えないからね!!」
ニヤっと音が聞こえそうなくらい、いい笑みを浮かべる。
「違います。本当に野暮用ですから。というか、オレが男だって知っていて仰ってますよね?」
雑貨屋おばちゃん「こんなだけ美人なら、男でも歓迎って奴はいくらでもいるさ。アンタのお母さんとそっくりな、まるでお伽噺に出てくるお姫様。白い肌、長い綺麗な金髪に淡い青い瞳。とびきりの美人で礼儀正しい。男だなんて大した障害じゃないよ!!なんなら、アタシがいい男を紹介したあげるよ。ちょっと待ってな」
「大問題です。何よりも、オレが男なんてごめんです」
豪快に笑いながら、背中をバシバシ叩いて店の中に姿を消すおばちゃん。
背に慌てて、宣言をするが耳に届いたどうだか怪しい。
雑貨屋店主「オレも、そんなに問題だとはおもわねーけど。うん、それだけ美人なら」
「相手が気にしなくてもオレが気にするんです。オレは別にそう言う性癖でも、性同一性障害でもないんです。ただ、顔が女顔なだけで、心も体もれっきとした男ですよ」
こういう場合はきっちりと宣言しておかないと、ラテン系の親切心で要らんでいいことをやってくれる。
善意からくる親切の押し売りは、ラテン人に非常に強い傾向だ。
「遠慮」と「拒否」の差は明確に。
でないと、孤児のを思いやって、本当にどこぞの金持ちのおっさんやボンボンとの縁談を持ってこられるのだから。
脳裏に、ある日留学先から帰ったら、町の連中にいきなり囲まれて、「今時絶対いねーだろ!」と言いたくなるような真っ赤なバラの花束(しかもリボンはピンク)を持って白のタキシードを着込んだどこぞのボンボンが―――いや、思い出すのは止めよう。
これから仕事だというのに、頭痛と吐き気なんぞに見舞われるわけにはいかない。
「ともかく、今はちょっと急いでいるので」
おばちゃんの腕から解放されたのを機に、シュタッと手を挙げて逃亡を図る。
その視界には、店の奥から手に何やらお見合い写真の様なものを持って出てくるおばちゃんを捕えていた。
雑貨屋のおばちゃん「これこれ、お見合い写真!前回は、君の希望も聞かずにこっちで決めたのが」
「失礼します!!」
「悪かったから今度は意見を聞いてから〜〜」と背中に追いかけてくる言葉を振り切るごとく、土煙が上がるほどのスピードで逃げ出す。
町の中心にある広場まで走り抜けてから、一息ついた。
何せ、見合い写真を持って待ち構えていたのはあの雑貨屋夫婦だけでなく、タベルナの店主やパン屋のおばちゃん、隠居老人まで「お前ら、他人の子供の見合い用意する前に自分とこの子どもに世話を焼け!」と言いたくなるくらい縁談を持って待ち構えていた。
しかも、相手は男。
(何故男の写真しかないかというと、一応町の住人も女性にもの写真を見せたが「女の人とお見合いなんて嫌!」と断れたという、嫌がらせより当人には泣きたい事実があったりする)
長空けている父の残した家の管理や幼い時に見てもらった面倒など、普段告白してくる馬鹿どものように殴り倒すわけにもいかず、善意からくるお節介にはほとほと手を焼いていた。
稼ぎ時故、通りに人は多々出ている代わりに、店を離れるわけにいかず追ってこないのが幸いだが。
当分の間あの通りには近づかないでおこう。
心に決めて踝を返したその背にかかった声に、全身が警戒する。
「」
飛び退くように振り返ると、よく見知った女性が立っていた。
「貴方らしくもないほど、驚きましたね」
年は、70を過ぎているであろうが、矍鑠とした修道女。
「これは、シスター?どうなさったのです、このような時間に」
の母は、彼女が奉仕している教会の一角に設けられた孤児院育ちだ。
そして、19年前と双子の姉が生まれてすぐに両親が死んだため、自身その孤児院で生活したこともある。
シスター「ちょっと買い物に。そう言う貴方は随分と急いで、どこへ行くつもりなのです?」
「他の人もいるでしょうに、態々貴女が行かずとも。ああ、持ちます」
シスター「気にしなくてもいいのに」
「お気になさらず。アテネに行くので、教会は通り道です」
シスター「ありがとう。こんな時間にアテネに?もう夜になりますよ」
「ちょっと知り合いに頼まれた野暮用がありまして」
シスター「こんな時間に?」
「ええ。・・・ああ、そんな顔をなさらなくても大丈夫ですよ。母のように女性なら夜出歩くのも危険かもしれませんが、オレは男です」
隣を歩きながら涼やかに笑う顔は、男性的とは欠片も言えない。
シスターにとって、娘の一人でもある彼の母の生き写しにも近い容貌。
すぐに分かる相違点は、父親に似た真っ直ぐな髪くらいで。
身長とて170を超えているが、この国では女性にもそれくらいの身長はザラだ。
何も知らない人間が見れば、間違いなく女性と間違うだろう。
「急いでいたのは、ちょっとそこの通りでお見合いの押し売りに合いまして」
さわやかな笑みが、苦いものを含んだ笑みに変わる。
シスター「あら、まあ。・・・お相手はまた男の方?」
「そうなんですよ。何度もオレは男だって言っているし、男だと認識してくれているはずなんですけどね。時々自信がなくなります」
シスター「大丈夫ですよ。私は男だと知っていますよ」
「ありがとうございます」
礼を言いつつも少し落ち込み気味。
シスター「それで、どれかお受けしたの?」
「シスター、今男だと思ってるって仰いませんでした?」
シスター「でも、貴方なら愛があれば性別なんて大した問題ではないでしょう?」
「キリスト教は同性愛は禁忌だった様に記憶しておりますが。ローマ教皇の方は、2000年のキリスト生誕祭でも同性愛だけは素通りをしたと、イギリスでニュースで見ましたよ。残念ながら、大主教の方は放送がなくて見てませんが」
シスター「そんなにウンザリしなくても、冗談ですよ。推奨するつもりはありません」
「ウンザリもしたくなりますよ」
シスター「そうねぇ。初対面の人には必ず『男です』って言わなければならないのはちょっと辛いかもしれませんね」
「・・・そんなに、オレって女っぽいですか?」
シスター「お父様のような男性的ではないわね。・・・中性的か、無性的かしら?」
「無性的、ですか」
くるっと自分の体を見回すが、 細く引き締まった体。
とりあえず、ダイエット中の女性はどうやってその体を維持しているのか聞きたいことこの上ないだろう、理想的なプロポーション。
当然のことながら、胸だけはないく真っ平だが。
「それなりに、喧嘩だってするのに」
シスター「それは、男性的とかとは関係ないし、自慢にはなりません」
「失礼、神に仕える女性の前でするべき話ではなかったですね」
シスター「話ではなく、行為事態です」
「降りかかる火の粉は払うのは権利ではありませんか?セクハラも、痴漢行為も甘受するほど臆病でも寛大でもありません」
シスター「払う前に、降りかからないようにすべきです。・・・夜に出歩かなければそれだけで、十分予防になるでしょう。今から出かけるのはナンパされに行くようなものですよ。違う?」
「仰る通りですが、用事があるので。今夜でないといけない用事が。それに、仮に夜出歩かずとも、結局昼間にも厄介事に巻き込まれるのですから、その策はあまり予防策としての意味はありませんよ」
「昼もなどと言い出したら、一生家の外に出られなくなるじゃないですか」と笑う。
シスター「予防はしてると言いたいの?」
「ええ、それなりに」
シスター「そのわりに、よく警察の御厄介になっていると聞きますけれど」
「あれ、シスターの耳にまで入っていましたか?ナンパ師やストーカーのしつこさに辟易して、力技に訴えたという話でしょう」
シスター「そうよ。仮にも自分に好意を持ってくれている人を殴るのは良くないことではない?少しくらい、悪びれなさい。アッサリ認めるなんて」
「悪いとは思っていませんから。今のお言葉は、好意さえあれば許される仰るおつもりですか?世の中には力のない女性を、無理やり力でねじふせたり、精神的に追い詰めるバカも大勢います。そんな連中にかける情けは、当の昔に持っているだけ無駄だと学習しています」
シスター「・・・そう言う人が多くなっているのも事実ね。でも、そのうち障害罪か過剰防衛で捕まるわよ」
「ご心配なく。対策は講じてありますから」
そう言う問題ではないのだが、突っ込んで話を聞くのが空恐ろしい笑みをしている。
昔から、良すぎるその頭に手を焼いたが、大人になって知識が付いた分手に負えない度合いはどれほど増したのだろう?
聞く話では度々警察に行っても何一つお咎めもなし。
むしろ「二度と来るな!」と追い返されているらしい。
そんな相手に、神に仕えることを選んだ善良なシスターができることと言ったら、
シスター「で、出来る限り平和に過ごしなさいね」
と、諭すだけ。
「尽力いたします」
後半の「生まれた時からトラブルには事欠かない人生なので、不可能だと思いますが」は呑み込んだ。
態々心配してくれている女性を心配させる必要はないし、口にすると益々厄介事が舞い込んできそうな予感がしたから。
口にせずとも過去に舞い込んで来た過去の事実からは目を逸らして。
「あ。シスター皆が貴方の帰りが遅いと心配して出てきちゃっていますよ」
言葉の通り、深い群青色に染まった町のなか、大きく開かれた教会の扉からは灯が道路と複数の子供の影を際立たせている。
2つの影を見つけて、声をあげて駆け寄って来る。
シスターに飛びつくような小さな影。
その中の一番大きな子供に、は手に持っていた荷物を渡す。
買い物に行く時間はさほど長くなかっただろうが、子供たちはシスターにまとわりついて教会に入っていく。
「では、シスター。オレはこれで」
教会に入ることなく、立ち去ろうとする。
シスター「一言、帰ったと主にご挨拶して行ったら?」
「いえ、タクシーをあちらで待っているはずですのでもう行きます」
やんわりと固辞する。
シスター「その様子では相変わらず、神と仲直りをするつもりはないのね?」
既に向けられた背い問いかける。
神の寵児。
を見て多くの人はそう思うだろう。
そして、神の愛をこの上なく実感しているだろうと。
容姿・頭脳共に秀で、多くの人が望むモノを全て持っているのだから。
でも、決してのこの青年は神を愛していないし、神に膝を折ることもない。
シスター「・・・教会は、神の家の門はいつでも貴方を迎え入れますよ」
数歩先を歩む、赤ん坊のころから知っている青年の背に祈るように、届くように心をこめる。
「お心遣い、ありがとうございます」
答えとして、いつも浮かべる静かで優しい笑みを振り返って見せてくれる。
けれど、決して15年前彼の姉のが死ぬまで見せていた笑みと重なることのない、笑み。
「行ってきます。」
「バイバイ」と手を振ってくる、子供らに手を振ってやる。
「あ、申し訳ないのですが。予定が狂ってら数日帰れなくなるかもしれないので、もしそうだったらまた家の方お願いします。帰ったら、ご挨拶に伺いますから」
ふと、思いついた様に付け足して、夜の闇が広がる中、軽い足取りで立ち去った。
青と赤と黒の入り混じる大気に、金の残滓を残して。
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